蛍東洋医学論文誌 JHTOM 110101
Vol. 11, No. 1, 2024
3.7M
鼠径ヘルニアへの鍼灸の適用
Acupuncture and Moxibustion Therapy for Inguinal Hernia
大塚 信之 所属 住所
Nobuyuki Otsuka Affiliation Address
あらまし
鼠径ヘルニアは外科手術が唯一の治療法とされている.そこで、鼠径ヘルニアに対して鍼灸治療を行い、鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療効果を明らかにすることを目的とした.鼠径ヘルニアで生じた右鼠径部の膨隆部の高さを定量的に測定して、膨隆量の減少を目指した.
54歳、男性.X年6月8日に右鼠径部の膨隆に気付き、総合病院の外科にて鼠径ヘルニアと診断された.患部は、立位において右鼠径部に膨隆があり、仰臥位では膨隆及び硬結は消失したため、狐疝とした.臓腑弁証は肝虚証とした.
本治法として左曲泉等に刺鍼し、標治法として右商丘、大巨、右外関、左足臨泣に半米粒大透熱灸を五壮から九壮実施した.左太衝や右気衝や右帰来に灸点を適宜追加した.治療頻度は週6回を基本として、6か月継続した.
膨隆部を含む下腹部の写真を週1回程度で撮影し、写真の画像から左側同一部位を基準として、右側膨隆部の高さの差を膨隆量として算出した.膨隆量は治療開始後の日数に従って、測定開始時の2.3mmから、5ヶ月後に0.5mmにほぼ線形に減少し、減少速度は1ヵ月あたり0.3mmとなった.データ数n=18、相関係数はr=0.96.膨隆部は全体的に縮小し、牽引痛は解消したことから、鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療の効果が示唆された.鍼灸治療を行うことで、発症から外科手術までに4年間の猶予期間を生み出すことができた.
キーワード 鼠径ヘルニア, 脱腸, 狐疝, 商丘, 大巨, 奇経, 東洋医学, 鍼灸治療
1.はじめに
鼠径ヘルニア(脱腸)は、鼠径靭帯上方で鼠径部に脱出するヘルニアをいう.ヘルニアの生じる解剖学的部位により、外鼠径ヘルニア、内鼠径ヘルニア、膀胱上ヘルニアに分類する.外鼠径ヘルニアは、外側鼠径窩から鼠径管を経て浅鼠径輪に出る.外鼠径ヘルニアが最も多い.外鼠径ヘルニアは間接鼠径ヘルニアともいい、先天性のものが大部分を占め、幼児の鼠径ヘルニアの大半はこれに属する.内鼠径ヘルニアは、内側鼠径窩から鼠径三角を経て浅鼠径輪に出る.
内鼠径ヘルニアは直接鼠径ヘルニアともいい、日本人では欧米より少なく、鼠径ヘルニア全体の1%以内に過ぎない.膀胱上ヘルニアは、膀胱上窩から浅鼠径輪に出る.膀胱上ヘルニアの症状は、鼠径部、陰嚢、大陰唇に還納性の腫瘤を生じる.膀胱上ヘルニアの診断は一般的に容易だが、鑑別すべきものとして陰嚢水腫、ヌック嚢腫などがある.鼠径ヘルニアの治療法として、ヘルニア帯による保存療法、注射療法は現在行われていない.自然治癒は1歳を過ぎると期待できず、嵌頓などの合併症の危険を考えて手術療法が勧められる[1].
鼠径ヘルニアは、30人から40人に1人と高頻度に発症しており、発症率は1.5%で、男子が75%となっている.外鼠径ヘルニアは最多で、年齢は問わない.内鼠径ヘルニアは、成人で増加している.鼠径ヘルニアは、自然治癒しないため、外科手術が唯一の治療法とされている[2].
日本における年間手術件数は、成人が16万件、小児が14万件となっている[3].
PubMedで鼠径ヘルニアの鍼灸治療に関する学術論文を検索した結果、鍼灸治療による鼠径ヘルニア術後痛緩和の報告は複数あるが、鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療効果に関する学術論文は検索されなかった.そこで、鍼灸治療で鼠径ヘルニアの症状が緩和されれば、臨床的価値は高いと思われる.
本論文では、外科手術が唯一の治療法とされる鼠径ヘルニアに対して鍼灸治療を行い、計測可能な指標として鼠径ヘルニアの膨隆量に対する鍼灸治療効果を明らかにすることを目的とした.計測可能な指標として、鼠径ヘルニアで生じた右鼠径部の膨隆部の高さを定量的に測定し、膨隆量の減少を目指した.
2.西洋医学に基づく診断と治療
以下に、西洋医学に基づく疾患の概要、成因、治療法を示す.
2.1 腹部ヘルニア
ヘルニア(Hernia, Hernie, Bruch)は、広義には臓器または組織の全体あるいは一部が、体壁や体腔内の裂隙、凹窩部や、組織の欠損部を通じて、その正常の位置から逸脱した状態とされる[2].ヘルニアは、腹腔、胸腔、頭蓋腔等の体腔の内壁(腹膜、胸膜、滑液膜、硬脳膜等)が体腔外に突出し、その中に体腔内臓器または体液が出入し、あるいは恒常的に出たままの状態になる.最も普通に見られるのは、鼠径ヘルニアに代表される腹部ヘルニアであって、単にヘルニアといえば、この腹部ヘルニアを指す.腹部ヘルニアは、生理的に存在するまたは病的に生じる、腹壁、骨盤壁、横隔膜等の裂隙や組織欠損部を経て、また腹膜陥凹部や腹腔内裂隙等に腹腔内臓器が逸脱や陥入した状態をいう.
図1にヘルニアの構造の概略を示す.腹腔を包む腹膜が筋肉の裂隙から皮膚に向けて突出し、ヘルニア嚢になる.

図1 ヘルニアの構造
壁側腹膜が脱出する腹壁の裂隙をヘルニア門という.ヘルニア内容が腹腔外へ逸脱する入口になる.次のような部位がヘルニア門になる.先天性裂隙では、①生理的に血管、神経、その他の臓器が腹腔を貫通している部位.鼠径菅、大腿輪、閉鎖孔.鼠径ヘルニア、大腿ヘルニア、閉鎖管.②腹壁層が部分的に欠如し、また薄く、抵抗の減弱している部位.内鼠径窩、外鼠径窩、白線、腰三角.内鼠径ヘルニア、外鼠径ヘルニア、白線ヘルニア.③生理的に存在する裂孔や裂隙.食道裂孔.後天性裂隙では、①手術、外傷、感染などによって生じた腹壁欠損部位や抵抗減弱部位.②手術、外傷、炎症などによって生じた腹腔内非生理的裂隙.
ヘルニア門から脱出した壁側腹膜をヘルニア嚢という.ヘルニア嚢は脱出内臓を包んでいる.脱出内臓が腹腔内に戻っても、ヘルニア嚢は通常そのままヘルニア門から脱出した状態になる.外鼠径ヘルニアでは卵円形を呈し、内鼠径ヘルニアでは円錐形を呈する.
ヘルニア嚢は壁側腹膜からなり、新鮮なヘルニア嚢は性状と機能ともに正常の腹膜と同様になる.しかし、陳旧になるにつれて、反復する機械的刺激や炎症のために、さらには循環障害などが加わって、なめらかで光沢があり、少しく湿潤している正常の外観は失われ、ヘルニア嚢は肥厚し、光沢を失って不透明となり、弾力性も乏しくなり、また周囲との癒着が増大してくる.まれには石灰沈着がみられることもある.ヘルニア嚢の炎症は、主としてヘルニア内容の炎症、あるいは機械的刺激、外傷等に起因する.腹腔内病変の波及によることもある.ヘルニア嚢の炎症は、ヘルニア嚢の内面の相互間に癒着を起こし、あるいはヘルニア嚢内面とヘルニア内容との間に癒着を起こし、ヘルニア嚢に種々の変形を生じ、憩室様突出となるヘルニア嚢憩室を形成することもある.ヘルニア嚢内面相互間の癒着の結果、ヘルニア嚢が索状化してヘルニアの自然治癒を起こすこともある.また、ヘルニア嚢の一部、特に頸部において、内面の完全癒着がおこって交通が遮断されると、癒着末梢部のヘルニア嚢内に漿液が貯留してくる.これをヘルニア嚢水腫といい、大腿ヘルニアに比較的多い.鼠径ヘルニアでは、精索水腫あるいは陰嚢水腫と酷似していて、これらとの鑑別は困難になる.
ヘルニア被膜は、ヘルニア嚢と皮膚との間にある組織層になる.ヘルニアの発生部位によって構成分は一様ではないが、定型的なものでは、ヘルニア嚢に近いほうから腹膜前脂肪組織、腹壁内筋膜、筋肉および腱膜、皮下組織、皮膚で覆われている.
ヘルニア内容は、腹腔内臓器はすべてヘルニア内容となりえる.特に移動性に富む小腸が最も多く、ついで大網が多い.ヘルニア内容が1種類の臓器のときは単純性ヘルニアといい、2種類以上の臓器を内容とするときは複雑ヘルニアという.腸管を内容とするヘルニアは腸管ヘルニアという.ヘルニア内容としては腸管が最も多いが、腸管では小腸が多く、ヘルニアの約80%を占める.小腸では特に回腸下部が多い.小腸は腸間膜が長く、腸係蹄が動きやすいのでヘルニア内容になりやすいが、回腸下部はこれに加えて、ヘルニア発生頻度の高い内鼠径輪または大腿輪に接近して存在するために、特にヘルニア内容になりやすい.大網を内容とするヘルニアを体網ヘルニアという.大網は極めて可動性に富み、ヘルニア門が小さくても通過可能で、多くの場合はまずヘルニア嚢に入るのは大網になる.腸管その他の臓器は大網の背側に入ってくる.成人のヘルニアでは、大網が最も多いヘルニア内容になる.大網が長時間ヘルニア嚢内にあると、嚢との間に癒着を生じ、還納不能になる.また大網炎症や循環障害などを起こし、このため大網は浮腫を生じ、著しく容積を増し、やはり還納不能になることがある.腹膜垂もヘルニア内容となり、嵌頓を起こすことがある.
2.2 腹部ヘルニアの臨床
ヘルニアは腹腔内圧、腹腔内臓器重量等が腹腔壁の抵抗に機械的に打ち勝って、腹腔壁の裂隙、抵抗減弱部を経て腹腔内臓器がその正常位置を逸脱し、外に出ることによって起こる.従って、腹部ヘルニアの発生の要因は、①腹腔壁構成成分に抵抗減弱部があること、②腹腔内圧の異常亢進があること、の2つが必要になる.一般には、腹腔内圧の異常亢進があっても腹腔壁が健常であれば、その張力は腹腔内圧に抵抗してヘルニアを起こすようなことはない.すなわち、腹腔壁の抵抗減弱部の存在が第一の要因で、腹腔内圧亢進は第二義的な要因や誘因と考えてよい.腹腔壁の抵抗減弱部が先天的に存在するか、または後天的に生じたかによって、ヘルニアは先天性発生と後天性発生に大別される.
腹腔内圧亢進を起こす原因として、小児では百日咳、気管支炎、肺炎などによる咳嗽、激しい啼泣、起立歩行時期の運動などがあり、成人でも喘息、気管支炎咳嗽、便秘に際する強い怒責や下痢による頻回の怒責、前立腺肥大症その他の排尿困難時の排尿動作、肥満や妊娠、分娩などがあり、腹水貯留や腹腔内腫瘤の増大なども腹腔内圧を亢進させる.また重荷提挙などの重労働、楽器吹鳴、声楽など職業的に腹腔内圧亢進を起こすものもある.腹腔亢進を伴う仕事に従事する者は普段の鍛錬で腹壁が頑強であって、ヘルニアを起こすものはごく少数で、この場合でもやはり先天的あるいは後天的に抵抗減弱部位を有することが主因と考えられる.以上のうち肥満、頻回の妊娠、分娩などが素因あるいは誘因と考えられるヘルニアが少なくない.
その他の素因として、遺伝的関係、年齢、性別がある.遺伝的関係では、先天性ヘルニア患者の約25%において、その両親または祖父母にヘルニアを認めたという記載がある.年齢では、ヘルニアは外側鼠径ヘルニアに代表されるように、一般に生後1年間に多く認められ、年齢が高くなるとともに減少し、肉体的活動の盛んな30歳から40歳ごろに再び増加し、50歳以降はまた減少してくる.これは、先天性ヘルニアは幼年期までに発現することが多く、後天性ヘルニアは一般に壮年以降に発生するためで、従って青年期におけるヘルニア発生率は著しく低くなる.外側鼠径ヘルニアは幼少時期に発現するものが圧倒的に多く、就学までに認められるものが2/3を占める.これに対し、内側鼠径ヘルニアは40歳以後に発現するものが多く、幼少時期にはほとんどみられない.内側(間接)鼠径ヘルニア219例中、最も発生の多いのは50歳から60歳で77例(35.2%)、35歳以後が95%となっている.性差では、総体的にいえば、ヘルニアは女子よりも男子に多い.これは、ヘルニアを全体としてみる場合、鼠径ヘルニアが圧倒的に多く、しかも鼠径ヘルニアの発生が、その解剖学的理由で圧倒的に男子に多いことに起因する.
ヘルニアが発生する場所は、外側鼠径ヘルニアは右側に多く発生し、右側と左側と両側性発生の比は6:3:1とされ、またそれぞれ発生率は60%、25%、15%になるという報告がある.内側鼠径ヘルニアも左右別では右側が多いが、両側性に発生することが多く、両側性発生頻度は約60%という.
発生頻度は、ヘルニアの発生率は30人から40人に1人の割合でみられるといい、発生率1.5%、そのうち75%が男子という報告もある.
2.3 腹部ヘルニアの症状
腹部ヘルニアの症状は、ヘルニア部位に腫脹が出たり消失したりする.例えば、朝には無くて午後になると出現する、起立、歩行、労働、怒責、啼泣、咳嗽などによって腫脹や腫瘤が出現しあるいは増大し、臥位、睡眠、入浴、排便などによって、また指で押さえることによって縮小や消失するという訴えがある.また、腹部手術、化膿性疾患、るい痩、頻回の妊娠や分娩などの既往を参考にする.
自覚症状は、普段はほとんど苦痛がなく、ヘルニアの出現したとき、または合併症の起こったときに、初めて気がつくものが少なくない.しかし、大部分は早晩不快感を覚えるようになる.ことにヘルニア発生の初期、または後になってヘルニア門が増大するときにいやな不快感や過敏性が起こり、下腹部に鈍痛、牽引痛、刺激用疼痛を覚える.この不快感、鈍痛は起立、歩行などの運動時に強く、臥位をとると軽減する.ヘルニア腫瘤の発現前に疼痛が起こることもある.一般に疼痛は激しくはなく、全く疼痛が無いこともある.ヘルニア門が拡大して陳旧性になると却って疼痛は軽減し、あるいは消失する.一般に消化管を内容とすることが多いために種々の消化障害を訴えることが多い.ヘルニア患者は上述のような諸症状に悩まされ、また出没するヘルニア腫瘤のため不安に陥り、神経質となり、あるいは悲観的となり、労働意欲を失うこともある.
他覚的な症状や所見の主なものは、ヘルニア腫瘤およびヘルニア門の触知がある.小腸は、球状、嚢状、表面一様に平滑、弾力性があり柔らかく、圧迫によって腸雑音が聞こえ、鼓音を呈する.腸管内に液体が貯留する時は、濁音を呈することがある.還納する時は、始めは徐々に縮小するが、最後の部分は急激に一気に還納する.その際一種独特のグル音が聞こえる.大網と小腸が共存していると、大網は常に小腸の前方に位置するので、まずヘルニア嚢内の後部にある腸管が還納し、ついで大網が還納する.大網は、表面平滑で、実質性また弾力性があるが、圧縮性はない.濁音を呈する.還納は一般に徐々に行われる.ヘルニア嚢と癒着し、あるいは脱出後容積が増大して還納不能になることがしばしばある.
2.4 腹部ヘルニアの治療
腹部ヘルニアの治療には、保存的療法と手術的療法がある.一般に保存的療法ではヘルニアの根治は期待しにくい.従って、保存的療法は、手術療法の禁忌あるいは不能の場合に試みられる.保存的療法としては、ヘルニア門部圧迫固定法と注射療法がある.ヘルニア門部圧迫固定法は、ヘルニア帯装着、ベロッテ固定、絆創膏圧縮固定などがあるが、部位的制限があり、鼠径部、臍部、前腹壁等のヘルニアに対して用いられる.一般に小児、成人のヘルニアに対しては無効で、多くは乳幼児ヘルニアの治療として行われる.注射療法は、ヘルニア門やヘルニア嚢、およびその周囲に刺激性物質の溶解液を注入して炎症性病変を起こし、線維性組織の増殖を生じさせて、ヘルニア門やヘルニア管を閉鎖しようとする方法になる.小さな腹壁、臍、鼠径などのヘルニアに対して行われてきた.日本では、従来から本方法はほとんど試みられていない.
発現したヘルニアは、すべて手術の適応と考えてよい.腹部ヘルニアの合併症の最良の予防策は、還納性ヘルニアのときに根治手術を行うことになる.還納性ヘルニアに対する待機的手術は単にヘルニア合併症の予防としての意味ばかりではなく、患者の最も条件の良い時期に手術を行えるため、緊急手術よりも術後合併症の機会が少なく、死亡率もはるかに低い.
2.5 鼠径ヘルニア
鼠径ヘルニアは、腹腔内臓器が抵抗の弱い内側鼠径窩、外側鼠径窩および膀胱上窩から鼠径菅を通り、または直接外鼠径輪から腹腔外に脱出する.
下腹部前壁の解剖では、下腹部前壁の腹膜面には5本の縦走する皺襞と皺襞により形成される3個所の陥凹部が存在する.雛襞には、5本の縦走する皺襞には中央を走る正中臍皺襞と、その左右を放射状に走る2本の外側臍皺襞、および外側臍皺襞の外側を走る左右2本の腹壁血管皺襞がある.窩は、これら5本の縦走する皺襞により左右それぞれ3つの陥凹部が形成されている.このうち膀胱上窩は膀胱の上部で、正中臍皺襞と外側臍皺襞の間に、内側鼠径窩は外側臍皺襞と腹壁血管皺襞との間に、外側鼠径窩は腹壁血管皺襞の外側で、精管の体外脱出部に存する.これらの凹窩部のうち膀胱上窩前壁は、腹直筋と強力な靭帯である鼠径鎌により形成されているので、抵抗が強く、この部から内臓が脱出することは少ない.これに反し、外側鼠径窩では、腹膜を隔てて直接内鼠径輪に接しているので極めて抵抗が弱く、外側鼠径窩は外鼠径ヘルニアの発生の主要な原因になる.内側鼠径窩は、鼠径鎌と窩間靭帯の間の抵抗の弱い部分に接しているので、内鼠径ヘルニア発生部になる.
鼠径菅は、内部は内鼠径輪を介して腹腔に通じ、外部は外鼠径輪を介して皮下に通じる.鼠径菅は、内鼠径輪から外鼠径輪に至る斜走する管腔で、内部を精索または子宮円靭帯が走っている.鼠径菅は管腔を形成しているのでなく、腹壁筋の筋膜または腱で囲まれた裂隙で、前壁は外腹斜筋腱膜、後壁は腹横筋筋膜、窩間靭帯、鼠径鎌、上部は内腹斜筋、腹横筋の下縁、下部は鼠径靭帯、反転鼠径靭帯で囲まれている.この裂隙が広くなり抵抗が少ないと、腹腔内臓器は内鼠径輪を通り、鼠径管内に脱出し、外鼠径ヘルニアになる.
内鼠径ヘルニアは稀となる.内鼠径ヘルニアは、腹腔臓器が内側鼠径窩から腹壁を貫き、外鼠径輪から皮下に脱出するものをいう.内鼠径ヘルニアは、内側鼠径窩から腹壁を貫き外鼠径輪から皮下に脱出するので、ヘルニア腫瘤は鼠径管内を通らない.従って、外鼠径ヘルニアと異なり、ヘルニア内容を還納し、鼠径管内に指を入れて腹圧を加えても、指先の先端に腫瘤を触れることはない.また、内鼠径ヘルニアは中年以降に多く見られ、幼小児に見られることは少ない.一般に内鼠径ヘルニアは両側性に見られることが多く、外鼠径ヘルニアは片側性のことが多い.またヘルニア腫瘤は外鼠径ヘルニアでは西洋梨形を呈し、頸部は細く、末端部は広くなっているが、内鼠径ヘルニアでは概して球状を呈し、頸部は広い.これらにまして重要な所見は、外鼠径ヘルニアではヘルニア門の内側に上腹壁動脈を触れ、内鼠径ヘルニアではヘルニア門の外側に下腹壁動脈を触れる.
2.6 鼠径ヘルニアの治療
外鼠径ヘルニアの治療は、保存的療法、注射療法および外科的療法がある.外鼠径ヘルニアに対する保存的療法としては、昔からヘルニア帯が使用されている.ヘルニア帯は、ヘルニア門を圧迫し腹腔内臓器がヘルニア門から脱出することを防止し、できるだけ自然治癒させるために使用される.ヘルニア帯は、一般的には、ヘルニア門を圧迫してヘルニア内容の脱出を防止する圧枕と圧枕をヘルニア門に固定するための支持バンドからなる.ヘルニア帯は、鼠径ヘルニアの治療として使用するのではなく、ヘルニアの脱出を防止することを目的とするように考えられている.鼠径ヘルニアが自然治癒しうるか否かに関しては、ヘルニア帯使用によりヘルニア門およびその周囲に無菌的炎症が発生し、ヘルニア門が線維性に癒着して、ヘルニア門が閉鎖することがあるといわれている.男児および女児において、3年以内であれば約半数は自然治癒することがあると報告されている.ヘルニア帯の使用は3歳以下の乳幼児に行えば自然治癒の傾向を促進する可能性が考えられる.ヘルニア帯の使用は、3歳までに留めるべきで、3歳以降の使用については考慮する必要がある.
注射療法は、ヘルニアに対し局所に各種薬剤を注入し、ヘルニア周囲組織に瘢痕を形成し、ヘルニア門を縮小または閉鎖するとともに、ヘルニア嚢の退化を図る方法が昔から行われている.
ヘルニアの根治治療は、手術療法のみになる.鼠径ヘルニアの手術療法は古くから研究されており、多数の方法が考案され、また多数の変法が行われている.
2.7 鼠径ヘルニアの分類
腹壁間鼠径ヘルニア(間質鼠径ヘルニア)は、ヘルニア嚢が内鼠径輪から鼠径管内に入るが、このまま陰嚢内に進まず、腹腔に進入する.
腹膜前鼠径ヘルニアは、ヘルニア嚢が腹膜と腹横筋筋膜との間に存するもので、外側に出るLatteralisと内側に出るMedialisがあり、さらに正常な鼠径ヘルニアと共存しているBilocularisと腹壁間鼠径ヘルニアのみのUnilocularisがある.腹壁間鼠径ヘルニアは、ヘルニア嚢が腹壁各筋層の間に存するもので、腹横筋筋膜と腹斜筋の間、腹横筋と内腹斜筋の間、内腹斜筋と外腹斜筋の間、外腹斜筋と腹横筋筋膜の間など種々のものがある.皮下鼠径ヘルニアは、ヘルニア嚢が鼠径靭帯に並行して皮下に現れるもので、症状は鼠径部に腫瘤がみられ、重圧感を感じることがある.しかし一般には特有の症状はない.治療は、外鼠径ヘルニアと同一手術を行う.
3. 東洋医学に基づく診断と治療
以下に、東洋医学に基づく治療法として、病因病機、証分類と処方例を示す.
3.1 鼠径ヘルニアに関連した学術論文
PubMedで学術論文を検索した結果、鍼灸治療による鼠径ヘルニア術後痛緩和の報告は複数あるが、鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療効果に関する学術論文は検索されなかった.鼠径ヘルニア術後痛緩和の報告は、経筋治療による鼠径ヘルニア術後の創部痛緩和効果の検討がある[4].鼠径ヘルニア術後患者に対して経筋治療を行い、術後早期の動作時における創部痛の緩和効果を検討した結果、治療直後の股関節屈曲動作時の鼠径部痛のVAS値は、鍼治療群で、症状が強い症例ほど顕著な効果がみられた.経筋治療は鼠径ヘルニアの術後創部痛に対して有用な治療法の一つになる可能性が示唆された.
また、腹壁メッシュ再建鼠径ヘルニア手術における補助的治療としての低周波電気鍼治療後の術後鎮痛[5]、鼠径ヘルニア修復時の鍼治療の麻酔効果[6]、および鼠径ヘルニア後の経皮電気神経刺激の鎮痛効果[7]などの報告がある.
3.2 鼠径ヘルニアに関連した書籍
鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療に関する書籍は、多く認められたが、症例が記載された書籍は多くなかった.
東洋医学では、鼠径ヘルニアによる疼痛は狐疝とよばれており、㿉疝、寒疝、疝気とよばれることもある.
黄帝内経霊枢には、狐疝は肝所生病や腎による病変とされている.霊枢経脈篇第十に、肝によって生ずる病変は、胸中が満悶し、嘔吐気逆し、穀物が消化しないで下痢し、狐疝し、遺溺(遺尿)あるいは小便不通になる、との記載がある[8].また、霊枢本藏篇第四十七には、腎の位置が低ければ、腰や尻に疼痛が起こり、俯仰できず、同時に狐疝病を生じる、との記載がある.
難経二十九難には、疝気は奇経八脈の任脈病証に挙げている.任のなす病は其の内が結して苦.男子は七疝をなし、女子は瘕聚をなす、とある.ここで七疝とは、腰や腹の痛む病気や腸が下がり睾丸が腫れる病気である.素問では、七疝は、衝疝、狐疝、㿗疝、厥疝、瘕疝、㿉疝、癃疝からなる.㿗疝は陰嚢ヘルニアや睾丸炎、瘕聚は堅くなった物の集まりとされる.一方で、七疝は、厥疝、癥疝、寒疝、気疝、盤疝、腑疝、狼疝とするものもある[9].
針灸学基礎編には、肝の経脈病証として、疝気、少腹部の膨満感、咽頭部の乾き、陰嚢の膨張と疼痛、腰が痛み俯仰できない、頭頂痛とある.少腹とは、下腹部を意味する.ここで、肝の経脈である足厥陰経脈は、陰器に至り、少腹部に上る.寒邪を感受し、この寒邪が肝経脈に影響すると、疝気、少腹部の膨満感、陰嚢の膨満感などの症状が現れやすい[10].
針灸学臨床篇には、疝気は、睾丸、陰嚢が腫脹して痛む病とされている[11].素問長刺篇では、病が少腹にあって、疼痛して大小便が出ないのは、病名を疝という、とある.疝気には、寒疝、熱疝、狐疝などが含まれる.腸重積症、副睾丸炎、鼠径ヘルニアなどは、疝気の弁証施治を参考にしながら治療することができる.狐疝の病因病機は、力み過ぎ、過労により脈絡を損傷し気虚下陥による.主症は、少腹部と陰嚢の下垂するような疼痛、疼痛は睾丸に放散、立つと下垂、横臥すると腹衝に入る.随伴症は、精神不振、乏力で、舌質淡、脈沈細になる.
気虚下陥により昇挙が無力になると、少腹部と陰嚢の下垂するような疼痛が睾丸に放散する.気虚下陥のために筋脈が弛緩し、立つと下垂、横臥すると腹衝に入る.固摂が悪くなると、体位の変化により症状は変化する.脾気虚により、精神不振や乏力になる.気虚により、舌質淡、脈沈細になる.
中医診断学には、陰嚢が腫大して不透明だが硬くなく、小腸が陰嚢の中へ入ることが多いものを狐疝と呼び、陰嚢が腫大して透明ならば水疝と呼ぶ[12].睾丸の腫痛も、やはり疝証になる.疝証には気疝、血疝、筋疝、㿗疝、寒疝、水疝、狐疝など七種あるが、いずれも睾丸が腫れたり痛んだりする.多くは肝鬱、寒を感受した、湿熱、気虚、あるいは長く立っていたり、遠くへ歩いたりして起きる、とされている.また、臨床症状は、足厥陰肝経の病証として、腰が前後に曲げられない、ひどければ嗌乾、胸満(胸脇苦満)、嘔逆(嘔吐の激しいもの)、飱泄(消化不良の下痢)、狐疝、遺尿、閉癃(尿閉)、女性の下腹が腫れる.証候分析は、足厥陰の支脈と別絡(絡脈)は、足の太陽や少陽の脈と同じく、腰骨から下の中髎と下髎の間に付着しているので、発病すると腰痛となって前後に曲げられなくなる.肝脈は喉嚨の後ろを行き、上がって頏顙(声帯)へ入り、額に上がって出て、その支脈が目系から頬裏へ下がるので、発病すれば嗌乾になる.足厥陰で、上行する脈は胃を挟んで膈を貫き、下行する脈は陰器を通って小腹に当たるので、発病すれば胸満や嘔逆、飱泄、狐疝、遺尿、閉癃などになる.
一方で、症状による中医診断と治療では、狐疝を移動性精巣とする[13].歴代の医家は睾丸脹通を狭義の疝の病証に含めている.睾丸脹通とは、睾丸が腫脹して痛む.疝の包括する内容は広汎で、病因については、王冰が素問大奇論の注として、疝は寒気凝結のなすところなりと述べている.症状については、諸病源候論に疝は痛なりと記している.病変部位については、類経に、疝は前陰少腹の病、男女五臓みなこれあり、と記載している.従って、男女を問わず下腹部から外性器にかけての寒気凝結による疼痛の総称にもなっている.
巌用和の済生方では、陰嚢や睾丸の病変を疝と明確に区別して陰㿗と称し、陰㿗を4種に分けて狐疝を卵脹と名づけている.丹溪心法では、疝は睾丸の小腹に連なって急痛するとする.医学心悟では、疝は少腹が痛んで睾丸に引く、と述べて狐疝を疝とみなしている.
以上を総合すると、疝には広義と狭義があり、男女を問わず寒気凝結によって下腹部や外陰部が痛むものが広義の疝で、医宗必読にあるように、受熱、受寒、受湿などの病邪によって睾丸の疼痛や脹痛が発生するものが狭義の疝になる.
沈氏尊生書臓腑門に、内外に邪を感じて、臓腑を攻撃すると腹中の疝をなし、陰器に会せば睾丸の疝をなす、とあるように、狭義の疝が睾丸脹痛に相当する.片側の睾丸脹痛は俗に偏墜といい、睾丸の脹痛が顕著で感覚麻痺があるものを㿗疝や木腎と称し、横臥すると睾丸が腹腔内に入り立つと陰嚢に入るものを狐疝といい、睾丸あるいは陰嚢がびらんや潰破して膿がでるのを㿉疝と呼んでいる.現代医学名称では、遊走精巣や移動性精巣になる.
金匱要略は、本編において四肢の病気、疝気病、蚘蟲病について論述している[14].細かな断片をあまねく集めて、前の諸篇で述べなかったものについて補充し叙述している.ここでは、狐疝を患っている病人は、陰嚢の片方が大きく片方が小さく、病気にかかっている方がしばしばなにか物が陰嚢に落ちこんだようだが、腹腔内に縮んで入るようにも感じ、上がったり下がったりする.この場合には蜘蛛散で主治する.ここで、陰狐疝気を狐疝と略称している.疝気が片側の陰嚢にあり、突然上がったり下がったりする.狐の出没には決まりが無いという状況にそっくりなので、狐疝と言う.病因は、下焦に寒気が凝結するためである.狐疝とは、腹肢間の斜めの溝の疝に相当し、疝嚢は内環部から突出した腹膜が形成し、疝の内容物は小腸と大網膜が最も多く見られる.しかし偏有小大ということから見ると、睾丸の疾患は排除できないと思われ、移動性精巣も含まれる可能性が指摘されている.
3.3 鼠径ヘルニアの治療法
鍼灸治療に関する書籍では、脱腸という記載を含む鼠径ヘルニアに対する症例報告は近代に多い.
針灸学基礎編には、治療は、肝の経脈病証には、主として本経穴および任脈経穴、督脈経穴を取るとある[10].その寒熱虚実の状態により、補瀉および鍼を用いるか灸を用いるかを決定する.
針灸学臨床篇では、治法は、補気昇陥止痛とする[11].治療穴は、関元、帰来、足三里、照海、大敦、三角灸.ここで、三角灸とは、患者の両口角の長さを一辺とする正三角形を作り、底辺が水平になるようにして、その正三角形の頂点を臍中に置いたときの両底角の所が穴位になる.この穴位には灸を用いることがほとんどで、鍼は用いないので三角灸と称している.
方解は、このタイプの疝気は中気下陥、元気不足のためにおこる.足陽明経筋は陰器に集まり、足少陰、厥陰経筋は陰器に結している.従って、足陽明胃経穴の帰来や足三里により、中気の補益や宗筋の温煦をはかり、昇陥止痛を助ける.また、関元により元気の補益をはかることで、昇陥を助ける.さらに、照海、大敦により腎気の補益、筋脈の温養、止痛をはかる.三角灸は経外奇穴で、疝気治療の経験穴である.三角灸に頻繁に灸を施すと、治療効果を安定させる作用と再発防止の作用がある.
操作は、三角灸には頻繁に灸を施す.その他の治療穴には、1寸直刺し補法を施し、20分間置鍼する.
古今処方例としては、医学綱目に諸疝大法は、大敦、行間、太衝、中封、蠡溝、関元、水道に取るとある.
耳鍼は、疝気は、外生殖器、神門、交感、小腸、腎、肝で、操作は毎回2穴から3穴を選穴し、強刺激を与え、10分から20分間置鍼する.隔日治療を行う.中薬は、狐疝には導気湯加減.
鍼灸は、寒疝や熱疝に対しては良い効果がある.また、初期の狐疝に対しては一定の効果がある.狐疝は力まないように注意し、平素から便秘や喘息に対しては適時適切に治療を行う必要がある.
鍼灸治療基礎学には、治療穴として商丘、曲泉、中極がある[15].商丘の主治は、足の甲の関節炎やリウマチ、または捻挫で足の甲が腫れたものを治す.鍼は、一寸刺入してもよい.鼠径ヘルニアにも効くとある.男子は㿉疝し、女子は小腹腫れるとある.㿉疝は、発揮に㿗疝とある.㿉も㿗も同じくタイとよむ.正字通には、㿗疝は、男子の陰器が少腹に連なって急痛する場合とあり、睾丸から下腹部にかけて絞るように痛む.俗に疝気の一種であるが、この中には睾丸炎や陰嚢ヘルニア及び鼠径ヘルニアも含むと見るべきである.脉解篇では、婦人の少腹が腫るる者もまた㿗疝というとあって、これは鼠径ヘルニアのことになる.胸満、嘔逆、飱泄、遺溺、閉癃のうち、狐疝は鼠径ヘルニアまたは陰嚢ヘルニアになる.狐疝は、立てば出て、横になれば入って隠れ、出入変動は変わりやすく、ちょうど狐の動静にも似ているから名付けられた.肝経は陰器を循っているため、陰器の病が肝兪及び肝経の治療で治るのであって、代田文誌氏が常に用いる中極や曲泉は肝経の経絡中にあって、次髎や中髎などの大事な穴も関係がある.肝兪及び肝経の穴が生殖器病に著効あることは、臨床上事実である、としている.
鍼灸真髄では、大横[16].脱腸は、大横に灸する.ヘルニア痛には、両乳頭間の長さを測り乳頭から下方に垂らすようにして、縄頭が尽くる端.大横の上一寸位のところが睾丸炎やヘルニアによく効く.
中国針灸学Q&Aでは、三角灸、太衝、関元、大敦、三陰交、陰陵泉[17].疝気は、広く睾丸、陰嚢、少腹が腫大して疼痛するものをいう.臨床上の主要症状は少腹疼痛して睾丸にひく、陰嚢腫大や脹痛等で、寒疝と狐疝等いくつかの証型がある.鍼灸の疝気に対する治療は温経散寒、あるいは清熱利湿、培元挙陥を原則として、足の厥陰肝経、足の太陰脾経と任脈の穴位を主に治療する.関元、大敦、三陰交を取穴し、あるいは太衝や陰陵泉を加え、あるいは三角灸を配合する.毫鍼で瀉法を施し、寒のある時は灸を加え、狐疝には灸を主にする.ここで、狐疝は、小腸が陰嚢に脱出するものをいう.仰臥時あるいは手で押し上げると腹腔内に戻り、立ち上がると陰嚢に落ち込む.その変動無常なる様が狐の出没に似ていることからこの名がある、としている.主治症は疝気痛、腹痛、下痢、神経性胃腸症、子宮下垂、不妊症等.
医心方では、衝門[18].衝門の主治は、寒けがして腹が張ってくる、尿路結石等で小便が通じない、尿道の痛みで気力がなくなる、身体が熱っぽく腹が痛む、妊娠しても出産が難しい、鼠蹊ヘルニア、陰嚢ヘルニア(陰疝)等で、心臓の部分まで痛みが放散する場合などに良いとある.
鍼灸医学では、商丘、帰来、衝門、急脈[19].商丘は、鼠径ヘルニア、陰嚢ヘルニア、腸疝痛、下腹鼓脹.衝門は、鼠径ヘルニア、陰嚢ヘルニア、腹痛.急脈は、鼠径ヘルニア、腸疝痛、疝気.帰来は、脱腸.気衝は、疝気、疝痛.中都と急脈は、疝気、腸疝痛、腹部急痛.腰陽関は、疝気、腸疝痛に効果がある.
鍼灸治療学では、気衝(曲骨と衝門の間)、衝門、中脘、患側天枢、章門、気海、患側帯脈、患側維道、肺兪、厥陰兪か膏肓、肝兪、腎兪、患側大腸兪か腰眼[20].主治経は、肝と心包、脾と心包、胆と三焦、胃と大腸の1対治療が主に用いられる.小児の場合では、治効を奏することが多い.なお、一般的にヘルニアと呼ばれるものは鼠径ヘルニアになる.鼠径部が腫瘤状に膨らむが、進行すると、男子では陰嚢まで、女性では大陰唇まで腸が達する.これを、陰嚢ヘルニア、陰唇ヘルニアなどと呼ぶ.腹壁が先天性または後天性に抵抗が減弱した場合や、腹圧が亢進した場合に起こる.不還納ヘルニアで嵌頓を起こした場合は急速に外科医に送らなければならない.老人の場合でも急性に発したものは治療しやすいが、慢性のものはあまり期待できない.小児には身柱を加える.大人では1ヵ月から数ヵ月の治療が必要になる.腹壁や腸に緊張を回復させるためには灸の方が有効になる.
深谷灸法には、商丘を脱腸の名穴とする[21].他に、脱腸には、衝門、羊矢(奇穴、稍上の前陰の左右、横骨の両端).鼠径ヘルニアには、泉陰(奇穴、横骨の旁三寸にあり、㿗卵偏大を治す.灸百壮、三たび之を報ず).陰嚢ヘルニアには、闌門(奇穴、陰茎の根の両旁相去ること各三寸、鍼一寸半、灸ニ七壮)、㿗疝偏大(奇穴、関元の両旁相去ること各三寸、青脈上に七壮).ヘルニアには、華佗(奇穴、足の親指の内側、爪甲角を去ること五分の赤白肉際).小児の鼠径ヘルニアには、商丘、身柱に一壮から五壮、脱腸帯を使用のうえ、施灸する.
奇経治療では、外関、臨泣、太衝、通里がある[22].
鍼灸治療の実際には、詳しい症例が報告されている[23].普通脱腸と呼ばれているのは鼠径ヘルニアになる.男子では鼠径部が腫瘤状に膨らむだけでなく、進行すると腸が陰嚢にまで達する.女性では、通常鼠径部が腫れたように膨らむだけだが、進行すると大陰唇に達する.
鍼灸療法では、小児の場合は案外に治癒するが、大人になるとなかなか治りにくい.老人になると殊に治りにくい.しかし、鍼灸が効を奏する場合もあるので、一応試みてもよい.嵌頓を起こした場合など、生命に危険を招くことがあるので、急速に手術しなければならない.
1歳から2歳の小児だと、患側の肝兪または腎兪または腎兪の一行に灸するだけで治るものが多い.3歳以上になると、身柱や患側の帯脈に灸する.灸はゴマ粒大三壮でよい.大人になると、身柱、肝兪、腎兪、患側の大腸兪、中脘、患側の大巨、上巨虚、中封などに灸する.鍼は、肝兪、脾兪、大腸兪、章門などに行う.腰部、腹部とも圧痛を調べて、証に随って鍼を行う方が良い.
大人の鼠径ヘルニアの症例を示す.30歳女性、二児の母(37/4/3診).数年前に右鼠径ヘルニアが起こり、代田氏の鍼灸治療で治った.その時、2ヶ月ほどかかった.その後ずっと起こらなかったが、1週間ほど前に起こったという.右の腹直筋が緊張し、右の側腹部の帯脈から維道にかけて筋が緊張して圧痛がある.それから右の胃兪や胆兪などにも圧痛が強く出ている.右の小野寺臀点にも右梁丘にも圧痛がある.治療は、鍼で、右帯脈、右大赫、右胆兪、右大腸兪.灸で、中脘、右帯脈、右維道、大巨、風門、身柱、脾兪、腎兪、大腸兪、右小野寺臀点、次髎、曲池、孔最、足三里、梁丘、三陰交.以降、灸を続けて徐々に回復していったが、1ヵ月後に診たとき、まだ少し出るといっていた.灸を続け、全経過約2ヵ月半で全治した.数年前にヘルニアが起こった時は、灸をすえて間もなく軽快し、1ヵ月半で全治したが、今度悪くなった時は、1ヵ月でかなり良くなり、2ヵ月半で全治した.繰り返すと治り方が手間どるようになる.小児ヘルニアはずいぶん多く治してきているが、治験をとってないので記せない.老人のヘルニアは幾例か治療したが、少数の好転例のほか、大抵はあまり効果がなかったように思う、としている.
針灸の医学では、鍼灸は、打撲、捻挫の後処置としては侮りがたい効果があり、リンパ腺炎、外痔核、脱肛なども手術によらず鍼灸によって症状を軽快させることができるが、ヘルニア(脱腸)も軽度のものは治すことが期待できる、とある[24].
4.鼠径ヘルニアの症例
4.1 現病歴
54歳、男性に対して鍼灸治療を実施した.主訴は、右鼠径部の膨隆であった.現病歴は、X年6月8日に右鼠径部の膨隆に気付き、総合病院の外科を受診した.症状は、立位で右鼠径部に膨隆と軽度の牽引痛があった.医師による触診で鼠径ヘルニアと診断され、自然治癒しないため外科手術を指示された.随伴症状は頸肩部痛で、既往歴は虫垂炎手術歴があった.
患部は、立位において、右鼠径部に直径4cm程度の膨隆があり、内部には直径2cm程度の硬結があった.仰臥位では、膨隆及び硬結は消失したため、狐疝とした.舌診は、淡紅舌、薄白苔、胖嫩舌であった.脈診は、沈、平、虚.触診では、太衝と京門に圧痛があった.
東洋医学に基づく診断として脈診を行い、左関上と左尺中の脈が虚で、太衝に圧痛があることから、臓腑弁証は、肝虚証とした.膨隆部は、肝経付近に位置することから、肝経脈病証とした.
西洋医学に基づく診断として、医師による問診と、膨隆部の触診により、鼠径ヘルニアとした.
4.2 東洋医学に基づく鍼灸治療
東洋医学に基づく治療方針は、肝虚証の改善とした.本治法として、肝虚証であることから足厥陰肝経の合穴である左曲泉または左太衝に刺鍼した.標治法として、文献記載の経穴を用いた.鼠径ヘルニア(脱腸)に対する治療穴は、症例報告がある商丘[19]、大巨[23]、奇経反応点の外関と足臨泣[22]を選定した.足厥陰肝経の原穴である左太衝にも灸点を適宜追加した.半米粒大の透熱灸を、右商丘五壮、大巨五壮実施した.加えて、半米粒大の透熱灸を、右外関三壮と左足臨泣二壮を1回として、3回実施した.さらに、左太衝に半米粒大の透熱灸を適宜追加した.
4.3 現代医学に基づく鍼灸治療
現代医学に基づく治療方針は、膨隆部近傍に施灸を行うことで、血流改善と筋緊張緩和により、牽引痛の改善を目指した.治療部位は、膨隆部である右帰来[19]や右気衝[20]に半米粒大の透熱灸五壮を適宜追加した.
治療頻度は、東洋医学に基づく治療と西洋医学に基づく治療を同時に行った.治療はX年6月30日に開始し、治療頻度は週6回を基本として、6ヵ月間継続した.
4.4 評価
定量的な評価を行うために、入浴直後に、立位にて、鼠径ヘルニア膨隆部の上部からデジタルカメラを用いて膨隆部を含む下腹部の写真を週1回程度で撮影した.図2に鼠径ヘルニア膨隆部の撮影時の構成を示す.写真の画像から、左側同一部位の高さを基準として、右側膨隆部の高さの差を膨隆量として算出した.

図2 鼠径ヘルニア膨隆部の撮影時の構成
図3に膨隆量の算出方法を示す.臍を中心として、左右の膨らみの頂点の間隔を45mmとして、画像の縦横の比率から膨隆量を計算した.

図3 膨隆量の算出方法
4.5 結果
図4に2日目と146日目の膨隆部の写真を示す。治療を実施することで、膨隆量は治療開始後の日数に従って、治療開始後2日目となる測定開始時のX年7月2日の2.3mmから、5ヶ月後となる治療開始後146日目のX年11月23日に0.5mmに減少した.

図4 膨隆部の写真
図5に膨隆量と症状確認時からの日数を示す.膨隆量は、治療開始後の日数に従って、ほぼ線形に減少した.最小二乗法により、減少速度は1ヵ月あたり0.3mmとなった.データ数n=18、相関係数はr=0.96であった.

図5 膨隆量と症状確認時からの日数
治療を進めることで、膨隆は高さだけでなく幅も含めて全体的に縮小し、牽引痛は解消した.
その後、同様の鍼灸治療を継続したが、膨隆部が大きくなったため治療開始4年後のX+4年6月にメッシュ挿入による外科手術(内視鏡手術)を行った.
5.考察
鼠径ヘルニアは30人から40人に1人と高頻度に発症しているが[2]、鼠径ヘルニア自体の鍼灸治療の学術論文はPubMedでは検索されなかったが、書籍では鼠径ヘルニアによる疼痛を狐疝として、疼痛緩和の治療穴が数多く報告されている[15].黄帝内経霊枢では狐疝を肝所生病としており[8]、今回の症例の臓腑弁証と符合した.肝虚証を素因体質とする患者は鼠径ヘルニアを発症する頻度が高くなることが示唆される.鼠径ヘルニアに対する治療穴は、症例報告に記載がある経穴の中から、今回の鼠径ヘルニアの膨隆部に近い経穴と手足の経穴を用いた.商丘[19]、大巨[23]、帰来[19]、気衝[20]、奇経反応点の外関と足臨泣[22]を選定した結果、鼠径ヘルニアの膨隆量の減少効果を確認した.
鼠径ヘルニアは、自然治癒せず外科手術が唯一の治療法とされるが、右鼠径部の膨隆量が減少したことから鍼灸治療の効果が示唆された.本症例では、鍼灸治療により鼠径ヘルニア自体は完治せず、X+4年6月にメッシュ挿入による外科手術を行った.外科手術は3日間の入院手術となった.日常では、即座に入院できない場合が考えられるため、手術まで鼠径ヘルニアの症状を緩和することが重要になる.今回は、鍼灸治療を行うことで、発症から4年間の猶予期間を生み出すことができ、すぐに外科手術しないで済ませることができた.日程の都合上、すぐに手術を行えない場合には、鍼灸治療によって痛みを緩和することで余裕を持った手術日程の設定が可能と考えられる.
6.むすび
鼠径ヘルニア(脱腸)は、自然治癒しないため、外科手術が唯一の治療法とされ、日本人成人は年間16万人が外科手術を受けている.一方で、鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療効果に関する学術論文は検索されず、症例が記載された書籍も多くない.
本論文では、外科手術が唯一の治療法とされる鼠径ヘルニアに対して鍼灸治療を行うことで、計測可能な指標として鼠径ヘルニアで生じた膨隆部の大きさの変化を定量的に測定した.鍼灸治療により、膨隆部の大きさが縮小すると仮定して、鼠径ヘルニアに対する鍼灸治療効果を明らかにすることを目的とした.計測可能な指標として、鼠径ヘルニアで生じた右鼠径部の膨隆部の高さを定量的に測定し、膨隆量の減少を目指した.
鍼灸治療は、54歳、男性に対して実施した.主訴は右鼠径部の膨隆であった.患部は、立位において、右鼠径部に直径4cm程度の膨隆があり、内部には直径2cm程度の硬結があった.左曲泉等への刺鍼や右商丘、大巨、右外関、左足臨泣への半米粒大透熱灸により、膨隆量は、治療開始後の日数に従って、ほぼ線形に減少した.最小二乗法により、減少速度は1ヵ月あたり0.3mmとなった.データ数n=18、相関係数はr=0.96であった.治療を進めることで、膨隆部は高さだけでなく幅も含めて全体的に縮小し、牽引痛は解消した.臓腑弁証の肝虚証は、黄帝内経霊枢の肝所生病と符合した.鼠径ヘルニアに対する治療穴は、症例報告がある商丘、大巨、外関、足臨泣を選定した結果、鼠径ヘルニアの膨隆量の減少効果を確認した.鼠径ヘルニアは、自然治癒せず外科手術が唯一の治療法とされるが、鍼灸治療により右鼠径部の膨隆量が減少したことから鍼灸治療の効果が示唆された.
その後、同様の鍼灸治療を継続したが、鍼灸治療により鼠径ヘルニア自体は完治せず、膨隆部が大きくなったため治療開始4年後のX+4年6月にメッシュ挿入による外科手術(内視鏡手術)を行った.
最終的には、外科手術を行うことになったが、鍼灸治療を行うことで、発症から外科手術までに4年間の猶予期間を生み出すことができた.
文献
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(令和6年10月23日受理)
大塚 信之
1985年 東北大学卒業
1987年 東北大学院博士前期課程終了
1997年 博士(東北大学)
1999年 蛍東洋医学研究所設立
2017年 明治東洋医学院専門学校卒業
2019年 大塚鍼灸院設立
漢方、鍼灸、気功など、東洋医学に関する研究に従事
所属 Affiliation
蛍東洋医学研究所, 大塚鍼灸院
Hotal Ancient Medicine Research Institute (HARI), Otsuka Clinic
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〒560-0033 大阪府豊中市螢池中町3丁目8-14
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